2013年03月17日

前の記事の続き。その3

そこで「天才」会田誠である。
娘は見に行ったようだが
私は拒否反応である。
だいすきな中村佑介さんすら絶賛のようだが
私は断固拒否する。

表現の自由は絶対に保障されるべきである。
これが大前提。
しかし同様に、
見たくない自由見せたくない自由も保障されるべきだ。
森美術館などというドメジャーな場所に
何故不愉快と大多数が思うものを飾るのか。
しかも、その表現は「いのち」の尊厳に抵触する、
としたら、あってもいい表現だとしても
あってはならない表現であるとも取れる以上、
より謙虚に慎重になるべきではないのか。

たとえば、津波で亡くなった方の死体を
表現の自由と称して好き勝手に解体して描き
宮城県に飾っていいものだろうか?
たとえば、原発で癌に冒された方を
お前が勝手に働いてかかった病だと言っていいのだろうか?

アーサーさんはこうも言った。
「放射能でかかった病は、放射能病では無いです。
水俣病患者という言い方もおかしい。
それらは皆、放射能虐殺でありカドミウム虐殺です」

自由というのは自由ではないという事だ。
女の子の手足を斬ることを描くのが趣味である、
という自由は許されるかもしれないが
実際斬ったら犯罪だろう。それは絶対自由ではない。
だとしたら、手足を斬った絵は秘めやかに隠されるべきだ。
何故なら、愚かな人間にとっては危険だからだ。
多くの歴史が実証している。
私は若い頃、ジョルジュ・バタイユやマルキ・ド・サド、
澁澤龍彦に大いに興味を持ち、渉猟した。
それはネットも何もない頃で
実にわが身を隠し、こっそりと探し、知られては恥かしい
趣味として高い代価を払って手に入れた。
耽美な物への憧れだったり、現実逃避の手段だったり
三島由紀夫がらみの研究対象だったりした。
やすやすと手に入れてはならないのだ。
そんな気になったものたちは、いまやお蔵である。
どうでもいいものとして、ただ記録記憶として
手放せないだけである。
自由でなかったから、手に入れたかった。
自由に手に入れるものではないものがある。
美術館に入るのに金はいるだろうが
そういうレベルの事ではない。
我々は前提として「愚かだ」と気付かなければ。
ましてや、作者は己を「天才」と称する怖さ。

アーサーさんはこうも言った。
「ただで真実は手に入りません。代価が必要です」

私はまだもちろん愚かだ。
しかし「師」はまだまだ沢山いるんだと安心した。
そして私も恥ずかしながら「師」のはしくれ。
そんな自分がまだ伝えるべき事はあるんだと思った。
「不忠臣」でいい。一人ひとりとして生きたい。
終わり。
posted by 大ねこ at 22:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
激しく同感です!
Posted by 麻由美 at 2013年03月18日 23:39
ありがとう!
がんばります。
Posted by 大ねこ at 2013年03月19日 23:38
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